国指定重要文化財

宮津洗者聖若翰天主堂みやづせんじゃせいヨハネてんしゅどう

聖堂訪問時のお願い

● 祈っている人の邪魔にならないように静かに見学してください。

● ミサや結婚式・葬儀等が行われている間の見学はお控えください。

    ただし着席して私語を慎み、ともにミサにあずかってくださる方は歓迎します(約1時間)。

● 聖堂内での飲食はご遠慮ください。

● 聖堂内の撮影は禁止です。

● 内陣(仕切りの向こう)には立ち入らないでください。 



フランス人司祭が創建した

現役最古のカトリック聖堂

この聖堂は、パリ外国宣教会から派遣されて

丹後地方で宣教を進めていた

ルイ・ルラーブ神父が設計、地元の職人が施工して、

明治29年(1896年)に建立されました。

現在もミサがささげられている教会堂としては、

日本最古の木造カトリック聖堂です。

 

外観はロマネスク様式を基調として

瓦屋根をいただき、昭和2年の北丹後地震のために

正面ファサードは改築されましたが、それも含めて

日本における教会堂建築史上に重要な地位を占めています。

 

大浦天主堂(国宝)がある長崎県ではなく、

京都府北部の宮津市に所在しているという点でも、

日本におけるカトリック宣教の足跡を知るうえで貴重です。

 


洗礼者聖ヨハネを保護者として

キリスト教の伝来以降、天におられる神を

日本語では「天主」といい、

その教えを伝える建物のことは「天主堂」と呼びました。

この聖堂の正面にもその名称が掲げられています。

また聖堂全体は、イエス・キリストに洗礼を授け、

生涯を通して人々をキリストへと導いた

洗礼者聖ヨハネ(漢字で「若翰」)に保護を頼み、

ささげられました。

 


洋の知と和の技が融合した

木造リブヴォールト構造

内部の天井は、ヨーロッパの大聖堂に

よく見られるリブヴォールト構造です。

リブ(rib)とは「肋骨」の意味で、

4分割したアーチの稜線にリブという補強を

加えることで、天井の重みを柱へと伝えます。

西洋の建築技法をこのように完成度高く

仕上げられたのは、施工したのが北前船で栄えた

宮津の船大工たちだったからでしょう。

彼らの高い技術が、精密なリブの連結や板張りを

可能にしました。彼らにとっては

船底をつくっている感覚だったのかもしれません。

 


丹後産のケヤキを使った

3廊バシリカ様式

建材には丹後半島の山間部で伐採された

ケヤキが使われています。

両側廊と身廊からなる3廊バシリカ様式の聖堂に

飴色の落ち着いた輝きを放つ列柱が

静謐な空間を生み出しました。

特筆すべきは、柱頭部の見事な細工。

西洋建築技法を会得した日本の匠の技が、

ここにも表れています。 

 


明治期の姿を伝える畳敷きの会衆席

禁教が解かれたのちに建てられたカトリック教会の多くが、

時代の流れとともに信徒の座席を椅子式に改修しましたが、

この聖堂では建設時の畳敷きが保たれています。

窓から差し込む色とりどりの光が畳の上に落ち、

信徒たちは感嘆のため息を漏らしたことでしょう。

当時の様子が偲ばれます。

 


  鮮やかな光に包まれて

「故郷の教会のように、鮮やかな光で

聖堂を満たしたい――」。

ルラーブ神父のこの願いにも、

宮津の職人たちは応えました。

小紋のような柄を施した色ガラスを

幾何学的にデザインした

木枠にはめ込み、

ステンドグラスのような効果を演出。

内陣最奥の窓の色ガラスには、

手描きで花を咲かせました。

素朴で愛らしい、光の花束です。

 


和室のようなしつらいも

聖堂正面の扉や窓の開閉は引き戸となっており

堂内の白壁や木柱、畳との相乗効果で、

慣れ親しんだお寺の本堂にいるような感覚に包まれます。

この心和む雰囲気は、日本人への宣教に

大きく役立ちました。


建堂の想いを扉に刻んで

仕切り中央の扉には、ミサに欠かせない

ホスチア(聖体となるパン)とカリス(酒器)、

十字架、そして希望のシンボルである錨が

彫られています。

さらに近づくと、「愛」「信」「望」という漢字も

刻まれていることがわかります。

日本語に堪能だったルラーブ神父が、

信仰の礎として示したものです。

ミサにあずかるごとに信徒たちはこの扉を目にし

そこに込められた想いを胸に刻んでいます。

 


無事を願った逆さ柱

内陣との仕切りの柵のなかに3本、

逆さ柱があります。

これは木が本来生えていた方向とは

上下を逆にしたもので、

和風建築では厄除けとして立てられます。

仕切りの造作は宮大工の手によるものですが、

キリスト教の信仰がなくても、

彼らは聖堂の末長い安泰を願ったのでしょう。



慈しみのまなざしを注ぐ聖像

聖堂内に安置されている聖像はすべて、

台座や天蓋も含めて、フランスから運ばれてきました。

み心のイエス像

イエスは人々の冷淡さを嘆かれ、

ご自身の無限の愛にならってその心を尊び、

できる限りの愛で応えるようにとすすめられました。

イエスが指し示す自らの心臓は、

全人類に対する神の愛の象徴です。

心臓に絡まる茨の冠はイエスを傷つける人々の罪を、

広がる炎はイエスの燃えるような愛を表しています。

 

 

百合の聖母子像

カトリック教会では、イエスの母であるマリアに

神へのとりなしを願い、特別に崇めます。

マリアに抱かれた幼子イエスは地球儀を持ち、

全世界の救世主であることを表しています。

聖母は冠をかぶり、「天の元后」

つまり「天の女王」であることを示しています。

また右手に持つ百合の花は、

純粋・無垢な聖母マリアのシンボルです。

 

洗礼者聖ヨハネ像

洗礼者聖ヨハネは、イエスに洗礼を授けた人物です。

イエスの先駆者として救い主の到来を告げ、

その準備のために洗礼を受けて回心するようにと、

人々に説きました。

荒れ野で暮らしていたためラクダの毛皮をまとい

左手に十字架を持っています。

右手が天を指しているのは、

救世主がやがて地上に降りてくることを示しています。

 

義なる聖ヨセフ像

聖ヨセフは聖母マリアの夫であり、イエスの養父です。

神から遣わされた天使の指示に従い

生涯を通してこの母と子を守り抜きました。

黙々と神の望みを果たしたことから、

「義人で忠実な人」と呼ばれています。

左手の百合の花は、マリアの夫にと神が選んだことを示すため、

彼の杖から百合が咲いたという書の記述にもとづいています。



ミサが執り行われる内陣

 

聖堂正面奥、仕切りの向こうの空間は「内陣」といい、

ミサなどの祭儀が行われるもっとも神聖な場所です。

司祭と侍者、典礼奉仕者、特別に許された人以外は立ち入り禁止です。


十字架

イエス・キリストは人間の罪をあがなうために、

十字架にはりつけにされました。

わたしたちのために死の苦しみを受け入れたのです。

そのため十字架は崇敬の対象となり、

人類に救いの希望を示すものとなりました。

祭壇

祭壇はキリストの食卓です。

ミサではこの上にホスチアとカリス、

十字架、祈祷書、燭台などが置かれ、

聖書朗読や説教、信仰宣言ののちに

「最後の晩餐」が再現されます。

 

聖櫃

祭壇の後ろに設けられ、覆いをかけられた容器は

「聖櫃(せいひつ)」といい、

ミサ中に聖変化した聖体(ホスチア)が

カリスに収められて安置されています。

脇の柱には、

聖体安置を示す赤いランプが灯されています。



十字架の道行き

聖堂の両壁には、全部で14枚の

「十字架の道行き」という絵画が

掲げられています。

これはイエスが死刑宣告を受けてから

十字架上で絶命し、葬られるまでを

14の場面で表したもので、

信徒はその一つひとつをたどりながら

キリストの受難を黙想します。

マリア像、聖櫃とともに、

カトリック教会特有のものです。



細川ガラシャの信仰を受け継いで

宮津は戦国時代のヒロインのひとり、

細川ガラシャが夫君・細川忠興と

幸せな結婚生活を送った土地です。

大坂に移った後も丹後国主の妻として往来を続け、

領地での布教も計画していました。

敵の人質になることを拒み、

信仰を貫いた彼女の死は宣教師たちによって

ヨーロッパに伝わり、

多くの人々が感銘を受けました。

約190年後に宮津に居を定めたルラーブ神父は、

同じ信仰に結ばれた人物が

かつてこの地にいたことに、

神の計らいを感じたことでしょう。

聖堂の建設にも、ガラシャの信仰を引き継ぎ発展させようという側面があったに違いありません。

それからさらに一世紀以上が過ぎ、宮津洗者聖若翰天主堂はいまも信仰の灯を燃やし続け、祈りの場として人々を迎えています。